福井氏
田沢さんありがとうございました。さて、佐藤さんに伺います。
右肩上がりのグラフを拝見すると、非常にうまくいっているなぁと思うのですが、「だだちゃ豆」という商標を独占的に管理されて、非常に有名に全国的になってきました。そういうことによって実際本当にうれしくなりましたでしょうか。豊かになりましたか。また、そういったその効果を伺いたいのですが実感をお聞かせください。
佐藤氏
地元農家
佐藤 トシ 氏 私たち生産者としては、大変良かったと思います。私たちは、ずっとだだちゃ豆を作ってきました。まだ直売所をやっていない頃ですが、豊作になると市場価格がグッと下がるのです。
自分たちで生産したものを自分たちで売るという意識を持ってもよいのではないかといって立ち上がりました。昭和55年です。
そのころ農協さんは冷凍枝豆を推進していたようでした。冷凍枝豆も大事だけれど、自分たちの生産物を値段つけて売るという意識の転換があってもよいのではないかということで、友達3人でだだちゃ豆を持ち寄って売ってみました。はじめは、10把か15把ずつ持っていって、雨降れば合羽着て売っていました。そうしたら、非常に売れてすぐなくなり、また採りにいかなくてはならなくて、とても3人では間に合わないというので、友達に呼びかけて1人5人ずつ集めて15人で売ったのです。
冷凍枝豆の話で農協に集まったときには、みんなで直売してみようといっても誰も手を上げて協力してくれなかったのです。それで3人ではじめたことなのですが、結果的に売れたということが広まりました。
翌年は、一緒に売ってもいいと希望者が多くなり婦人部活動の中に枝豆直売グループが誕生しました。しかし、売るということが恥らしいという、昔の考えや地域性があります。大泉というのは、水稲単作地帯でした。米は農協を通して売りますが、野菜などの農産物は売るということよりも、人にあげたり自分で食べることが誇らしく、売るということが卑しいような、そういう目で見られるような時代だったと思います。ですから私たち直売を3人でやっていると、何をしているんだろうと見られてるような、平和な稲作平野地帯に、さざなみが立つような感じすら受けた気がいたします。
それでも、売れるとなると売りたいという人が増えてきまして、多いときには50人にもなりました。しかし、一店舗で50人が売るということは大変なものです。1人当たりの売る数量が減ります。そこで今度は店舗を4つに分けて、道路を通る車に売っていこうということで、農協の敷地や道路に面した所を借りたり、民間の所を借りるなどして4店舗でやったこともあります。はじめは販売した金額、売り上げについては自分のものは自分でという売り方にしました。しかし、共同出荷ということになりますと、こちらの店では売れるけれど、あちらの店は売れないということがあり、その店の順番までグループの方たちがやりくりをしたり大変苦労しました。でも、その直売が現在も続いています。30年程になりますけれども、今では直売も珍しくなくなりましたが、毎年、皆さん買いに来てくれます。
売りはじめた頃には、売るものはあるけれど、お客さんがこないと困るものですから、山形放送局のラジオ放送に電話して、「明日から直売始めます」と連絡しました。すると取材に来てくれて、いろいろ話すものですから、次の日から売れるのです。そのように宣伝費を使わないで、山形放送さんの取材に、みんなでかわるがわる出て、しゃべってという感じで宣伝したのです。それも昭和55年から今まで続いています。