知的財産権の活用による地域活性化セミナー | 第2部 事例紹介およびパネルディスカッション : 「だだちゃ豆を愛する会」を発足

平成19年11月19日 東北農政局にて行われた
「知的財産権の活用による地域活性化セミナー」 紹介ページ

印刷用表示/文字サイズ変更
印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

| ホーム | 第2部 事例紹介およびパネルディスカッション | 「だだちゃ豆を愛する会」を発足 |

第2部 事例紹介およびパネルディスカッション

「だだちゃ豆を愛する会」を発足
佐藤氏
 減反が多くなってきて、鶴岡市でだだちゃ豆の面積を広げるようになってきました。そうすると、だだちゃ豆が本場だと思っていた当地域が見えなくなってしまう、広げて悪いことではないのだけれど、いいことなのだけれども、面積を広げるということは主な産地であった大泉という地区が見えなくなってしまう、合併されると大泉農協ですらなくなってしまう、というように私たちは危機感を感じて平成8年に、地域、女性の方々が10人ぐらい集まって、「だだちゃ豆を愛する会」を発足させました。
 女性だけでは知名度が低いと思いまして、男性の協力を得ようと、自治会長さんに、そのイベント当日だけの会長になってもらえないかとお願いし、「当日だけだぞ」という約束で、会長になってもらいました。そして、案内状は全部私たちのほうで準備しますけれども、名前だけは自治会長の名前で出させてください、と了解を得まして「だだちゃ豆ユートピアin大泉」を開催しました。
 お金も何にもないものですから、鶴岡市の市民創造支援事業というのがあったので、その支援を受けてイベント事業しました。「だだちゃ豆を作ろう、食べよう、楽しもう」というテーマです。内容は、だだちゃ豆の収穫体験と、ゆで方体験でゆで方の指導をしました。それから昼食は、だだちゃ豆レストランということで、だだちゃ豆ご飯、だだちゃ豆の味噌汁やプリンなど、いろいろなだだちゃ豆の料理を作りました。それも全部、地元を盛り上げようというのが私たちのきっかけです。地元が盛り上がらないと消費者には届かないということで、自分たちが作って、自分たちが楽しむことが一番よいのではないかと思いました。
 白山だだちゃ豆というのが、ここの家の豆、あそこの家の豆と品種が数限りなく、それぞれの家で先祖伝来、代々選別してとり続けてきた種があり、自分の家の豆が一番美味しいんだ、というプライドが皆さんあります。それを地域のものにするには、もっと地域が力を合わせていかないと、大きく消費も増えないということで、地域の人に券を配って買ってもらってイベント開催しました。市は全額負担してくれません。3分の2の助成でした。当日予算の3分の2ですから、それなりの予算を立てました。
 午後からは、「パネルディスカッション」を行いました。農家の人たちですので、「パネルディスカッション」といっても、あまりピンとこないものですから、「だだちゃ豆談義」と名前をつけました。
 パネルディスカッションですから、パネラーに生産者2人入って欲しいということで、大泉村史を調べて、ある農家のおばあさんがその種を選び出したという家の子孫の方にお願いしました。発祥の家と名前をつけました。
 それから枝豆の作付け、収穫、包装まで機械化に取り組んでいる農家の方。料理研究家。市内の加工業者。山形大学の留学生にお願いしてパネラーになってもらいました。
 事業計画の内容には本の制作もありました。だだちゃ豆がどこから来て、どんなふうにだだちゃ豆と呼ばれるようになったのかということを、ずっと不思議に思っていたものですから、この際にと思いまして、先輩、90歳になったおじいさん方や、地域の研究家、短歌の先生でもあった阿部さんたちに、市内をまわって聞き歩きました。そしてまとめたのが、「だだちゃ豆物語」という本です。予算の関係で小さくなりましたけれども、とにかくよいものを作ろうといっぱい歩きました。お話を伺った人たちのお名前も載っていますし、写真もあります。しかし今では老齢でお亡くなりになられた方もいます。
 本の中には、白山地域のおじいさん、郷土史研究家の日向文吾氏、殿様との関係を作って、殿様に豆を一番早く届けた人の話が載っています。その届けた人は農家の人で、殿様の家に毎年働く人を連れて、庭仕事をしたり、畑仕事をしたりする人夫頭といったらいいかな、その人は畑作りが非常に熱心で、殿様に自分が作った豆を持っていったところ美味しかったという話です。
 先ほど田沢さんがおっしゃった小真木のだだちゃではないのか、白山は違うのではないか、といわれますが、それがいろいろ関係ありまして、藩主の人が白山のほうにも住んでいたということと、だだちゃというのが方言であるということ、白山のだだちゃの持ってきた豆と、小真木のだだちゃが持ってきた豆も、全部昔は木豆(木になる豆)といって、町に売り歩いてきたということを郷土史研究家の日向文吾氏がおっしゃっていました。
 木豆をそれぞれの地区の人が持っていけば土地の名前がついて小真木の豆、小真木のだだちゃの豆、白山の人が売りに来れば白山の豆というぐらいに地域性がついてくるということは、地域の土壌が関係あると私は思います。白山の土壌で育てたものと、小真木の土壌で育てたものとの豆の違いというものについて消費者はちゃんと味が分かり、こちらの豆、あちらの豆ということがあったのかと取材を通して感じました。
 白山集落の中で、宮城県伊達藩の「伊達」がなまって「だだちゃ」になったという人がいたものですから、それを確かめたくて高齢者の方に聞いたら、その方がおっしゃるには、宮城県に茶豆を栽培する習慣、食べる習慣はなかったということでした。やはり地方のなまりが「だだちゃ」になったということと思いました。

「だだちゃ豆を愛する会」で作る豆菓子「だだちゃ豆を愛する会」で作る豆菓子